NAGIの不思議日記
日々の出来事や出会いは「?」の連続。 書きとめることで、感じた「?」を深めたい。
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2002
08,21
10:01
不出来な母だと、涙して
CATEGORY[未選択]
8月の始めに次女、中ごろは長女が相次いで帰省、そしてまた東京へと戻っていった。
娘たちが帰省すると、私はとたんに「世話焼き母さんモード」になる。何かおいしいものを作って食べさせよう、服を買ってやろう、美容院に連れて行こう・・・エトセトラ、エトセトラ。とにかく、何かしてやりたくてたまらなくなる。期限の迫っている自分の仕事も放り投げ、あれこれ世話をやき、何事も娘の用事優先で進める。もちろん実際にはそう大したことはしてやれないのだが、精一杯、限度ぎりぎりまで時間を割いてあたっていく。理屈ではなく、そうしたいのだから仕方がない、と言い訳しながら。
でも、これがいけないんだなあ・・・。時間的に無理を重ねていくので、急な用事が入ったり、時間が押してきたりすると、だんだん表情が険しくなる。今回も最後は、娘たちをせかせたり、小言を言ったりすることになってしまった。
そうやって過ごしたあと娘たちを空港なり、岡山駅なりに送っていった夜は、涙が止まらない。さびしいから、ではない。そんな美しい涙ではない。
なさけない母親で申し訳ないという苦い涙だ。
子どもたちにとって春風のような母親になりたいといつも思っているのに、余裕のなさと人間としての未熟さから、からっ風になったり雨風になったり、後悔することばかり。あとで、娘をいとおしく思って涙するくらいなら、そのときになんで柔らかさを持ち続けられないのか――情けない。
自分では決して「子離れ」できていないとは、思っていない。私は自分の時間も仕事も趣味も持っているし、娘の人生に干渉する気もない。対等にいろんなことを話し合っている関係だと思っている。
でも、ちょっと待てよ。私の場合、娘にとって「やさしい母親でありたい」と思い続けていること自体が、子離れできていない証拠ではないかしら。
もう娘たちは一人の人間としての基盤を築いていて、いつまでも母親の言葉や態度に影響されるとも思えない。なのに母親の方が一人で罪悪感を覚えること自体、子離れできていない状態を表しているのではないかしら。
思えば、私にとって子育てほど自信がないものはない。いつからだろうか、こんなに不確かな気持ちになったのは。自分を母親としてオチこぼれだと思い、なんだか「迷いの森」に入り込んだような気がしだして久しい。
とびっきりの母親になりたかったのになあ。未熟なままに先に子供たちの方が自立していくのだろう。まあ、もう母親には傷つけるほどの力もないと思えば、気が楽だが。
でもね、そうは思っても、自分が情けなく、娘がいとおしく――涙はやっぱり止まらない。
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2002
08,07
10:02
いのち輝く
CATEGORY[未選択]
NHKラジオ英会話で長年講師を務めていた、早稲田大学教授のK.T.先生(了解を取らずに載せているので、イニシャル表記のみ)をお迎えした。数十年前テキストの表紙で見た顔しか知らないけど、ままよどんなにかなるわ、と岡山駅西口の改札口で待っていると、短めの白髪頭、エンジ色のネクタイに薄いグレーのスーツといういでたちの、さっそうとした紳士が現れた。昔はもうちょっと軽く、野暮ったかったような印象があるのだが、かっこよく年齢を重ねられたって感じ。
往年のファンの中には、新聞の案内を見て「英語の上手な学習法」のようなことについて話されるのかと思って来られた方もいたようだった。でも、タイトルは「いのちはぐくむことば」。
T先生は、心技体という言葉があるが、「いのち」をその中に加えなければならないと思う――という話から入っていかれ、盛んに「いのち」「魂」「生命力」ということを強調された。なんだか、「ラジオ英会話の有名講師・K.T.」の話じゃないみたいだなあと思って聞いていた。
そのうち、娘さんが不登校になった時期があったというようなことをもらされた。「方向性」が変わってきたのは、それが原因なのかなと思った。子どもの問題は親を変える最強の力だ。以前のヘラへラッと笑った(ごめんなさーい)英会話の表紙の顔が、深く渋く変わっていたのは、年齢のせいだけではないのかもしれない。
そんなお話の中でのあるエピソード。
十年程前から早稲田の学生も無気力というか、あまり熱心に勉強しなくなった。受講学生の1/3は遅れて入ってくる。講義をしているとまた一人、また一人と、入ってくる。そのつど、学生に出席票を渡さなければならない。「またか」とうんざりしながら横向きに片手で渡す。「はいはい、はよ座れ」って感じ。
また、眼を輝かせて勉強する学生はほんの一握り。後ろの方では週刊誌や新聞を読んでいる者もいる。先生の心は学生を責める気持ちでいっぱいだった。
でもあるとき(このころ娘さんが不登校で、接し方に悩んでいた時期らしい)、学生の態度によって、気持ちが揺らぐのは「自分のいのちが自分として輝いていない」「左右される、つまり他者の行為に依存しているのだ」と気づいたそうだ。
そのときから、あくまで自分は自分としていのちを全うしていく姿勢を持とうと思った。具体的には、学生が遅れて教室に入ってくると、そこまで歩いていって、礼を尽くして、出席票を両手で渡し、席につくまで見守った。学生が入ってくるたびに授業を中断して毎回手渡しに行った。相手がどんなに無作法でも自分は自分の礼を尽くし、自分の生きざまを示すのだと決めたそうだ。
数ヶ月もしないうちに遅刻者はいなくなり、授業を聞く態度も真剣になったそうだ。自分の生き方、いのちを見せるという気概を持つと、それは必ず伝わるという体験をされたわけだ。
さらに「いのち輝く」というのは肉体の生死の状態には関係ない、というようなことも話された。死後も残った人々の心の中で「いのちを輝かせている」人もいるという。
そういえば以前、コンゴから来たキリスト教の神父さんに同じようなことを聞いたことがある。
聖書では、イエス・キリストは死後弟子たちのもとに「よみがえった」とされている。彼は、それは奇跡でも何でもなく、イエスが人生を生ききったことによって強烈な思い出を生者に残したからで、たとえば、イエスとの思い出の場所にさしかかると、そのときの様子がまざまざと浮かび上がってきて、それが「目の前にイエスが降りたって私にことばをかけられた」ということになるのだと、解説していた。バリバリのローマカトリックの神父がそういう分析をくだしたので驚いた覚えがある。
生きていてもいのちの光彩を放っていない人もいれば、死してもなお生者の心の中で生き生きといき続けている人もいる――。
T先生の目に宿る強い光を見て改めて「自分を生ききる気概」というものを実感した。
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2002
08,02
10:03
忙しい???
CATEGORY[未選択]
いつだったか、夫にふっと「最近仕事が忙しいんよ」と言ったとき、「忙しいって言うけど、基準はなんだ? 仕事量と仕事時間を定量的に見てみろ。漠然と忙しがってないか? 規定の勤務時間では仕事が片付かないくらい忙しいのか? おれから見ると、お前は超過勤務しているわけでもないし、仕事以外の活動もしているし、ゆとりがあるように見えるけど」と返された。
「ふーんだ! 家のことがあるから定時に仕事を切り上げて帰らざるをえないんじゃないのっ」と反発しながらも、「定量化」とか「客観化」ということばが残った。確かにもっと仕事している女性は多いし、これくらいで「忙しい」と言うのは、ちゃんちゃらおかしいのかもしれない。
以来、「忙しそうですね」とか「忙しいでしょう」とか言われても、「そうなんです」とはっきり返事できないでいる。本当に私は忙しいのだろうかと、つい、仕事量と時間とを量ってしまうのだ。そして、そんなことを考えているうちに、あんまり忙しくはないのかもしれないなんて思えたりしてくる。単純なのっ!
そんな折、ある同僚に「最近仕事が多くて忙しくて嫌になってしまう。やってられないわ」と言われた。もう、ビックリ仰天してしまった。冗談かと思ったけど、顔を見ると悲痛な表情を浮かべている。
その人は、私の職場の中でも、「客観的には」もっとも仕事量が少ない部類に入る人で、その証拠に、週のうち出勤は4日。出勤しても丸1日居ることはまずない。遅れてきたり、早く帰ったり。その人が「やってられないくらい仕事が忙しい」と言うのだ!
なんなんだろう? 「忙しい」って?
やっぱり、客観化、定量化できないものなんだな。
そういえば「忙しい」って「心を亡くす」と書く。その人本人が「心をなくす」くらい切羽詰ると「忙しい」のであって、客観的仕事量なんて関係ないのかもしれない。
最近特に仕事が増えてきた。本来の仕事のほかに、会議や企画立案など次々に入ってきて、朝から夕方まで休みなしに働いても片付かない。帰宅時間はどんどん遅くなっている。でも、こうやって「えと・おーる」なんて活動もできて、「私は本当に忙しいといえるのかどうか」なんて愚にもつかないことを考える余裕もある。
なんなんだろねっ、「忙しい」って。
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2002
07,24
10:04
ひろくん[2]
CATEGORY[未選択]
劇の発表会から卒園までの間に、ひろくんは芽吹いたばかりの若芽のように、急激に成長していった。話すことが楽しくてたまらないふうで、送迎のときに「ひろくん」と呼びかけると、なんやかんやとおしゃべりしてくれるようになった。
最初は難色を示されていた地域の小学校への入学も、最後の面接ではOKが出た。ひろくんは仲間と同じ小学校に、ただし、棟の一番奥にある「障害児学級」に入ることになった。
「目も見えず、耳も聞こえず、一生この状態で」という医師の診断は一体なんだったんだろう。おそらくは切り取られた脳の周囲でシナプスがどんどんつながっていって代償機能を持つようになったのだろうが、ひろくんのことを思うと、「医学」の常識などまだ浅知恵にしかすぎないと実感させられる。生命の、底知れない神秘に謙虚な気持ちになる。
20日、講演会「子どもが子どもとして生きるために」と、Dreaming Tomorrow の子どもたちの歌とパーカッションが、無事終わった。
「手をつないで こんにちは みんなに会えて よかった 手をつないで こんにちは あいさつしよう」と歌いながら子どもたちの紹介が始まる。
私も思い切り歌った。あなたに会えてよかったという気持ちが身体にあふれた。
ひろくん、あなたに会えてよかった。でも、その気持ちを伝えないままだったね。
次女が小学校入学して1年くらい経ったある日、私は、保育園児の息子と公園の砂場で山を作っていた。しばらくすると男の子が「手伝おうか」と言ってきた。見上げると、ひろくんだった。息子と一緒に砂を高く高く積み上げ固め、トンネルや川を掘っていった。気がつくと夕日が沈みかけていた。あたりを見ると、離れたところに、ひろくんのお父さんが立っていた。ずっとそこで見ていたらしい。お父さんは保育園にはあまりみえられなかったので、私が同じ保育園の母親だとは気づかなかったろう。
「さあ、もう帰ろうか」とお父さんはひろくんに言った。もっと遊びたい、とせがむのを、静かに言い聞かせ、私たちの方に向いて「遊んでくれてありがとう」とていねいにお辞儀をされた。
一瞬、胸をつかれた。
振り返り振り返りしながら帰っていくひろくん父子に、息子と「バイバイ」をしながら、思った。遊んでもらったのは息子の方なのに、一緒に楽しんだのに。
あのとき私はどう言っていいのかことばがなかった。「遊んでくれてありがとう」―この言葉に、うかつに触れることもできない、悲しみの歴史を感じたからだ。ただ、心のなかには「一緒に遊んだんだよ。お礼なんて言わないで」ということばが残った。
次にひろくんを見たのは、砂場での再会から数年後のこと。
小学校での懇談会を終えて川べりの小道を歩いて帰っていると、数メートル先を母子づれが歩いていた。やはり懇談帰りだろう、細い道で追い越せないので、離れて歩いていると、なんだかケンカをしているらしい。お母さんが、並んで歩いている、自分と同じくらいの背の息子を、怒って小突いている。息子の方も大きな声で反論している。
あれっ? ひろくんじゃないかな。
からだはまだ少し傾いて揺れてはいるけれど、後姿は前よりずいぶんしっかりしてきた。けんかをしている本人たちにとっては、それどころではないだろうけど、私はなんだか、うれしかった。
いつも下を向いて悲しそうに心配そうに、壊れ物をさわるように息子を見ていたお母さんが、大声張り上げて息子を叱っている。息子も負けずに応酬している。
ひろくんはもう「かわいそうなひろくん」じゃなくなったんだ。
お母さん、もっとやれやれ! ひろくんも負けるな。
彼にまつわることをよく覚えているのは、逆に言えばそれだけ会う機会がなかったということ。ご両親がおとなしい方だったし、父母間の交流の場もなかった。
ひろくんは、学校の一番奥の教室で数人の仲間たちとゆっくりと成長していったのだろう。あの頃は分からなかったが、今、障害児学級がなぜ一番奥の端っこの教室なのかという疑問を持っている。学校の方針? それとも親の要望?
その次、そして最後に、ひろくんを見たのは、小学校の卒業式の日だ。
卒業生全員が名前を呼ばれ、返事をして、壇上にあがり、校長から卒業証書をもらう。次々に子どもたちがあがり、わが子も無事すみ、もう終わりかなというとき、ひろくんの名前が呼ばれた。ひときわ大きい「はい」という返事。そして、すらっと伸びた背、ほとんど揺れない足取り。片手で証書を受け取り、降りていく横顔は、まっすぐ前を向いていた。
「お医者さんから、この子は一生目も見えず、耳も聞こえず、知能も発達せずに生きることになります、と言われたのです」 悲痛な声がよみがえり、遠のいていった。
のどの奥が熱くなった。
ひろくん、卒業おめでとう。
わが子が地元の中学校へ進まなかったので、その後ひろくんに会う機会はないままになっている。今、ひろくんは20歳。どこかでゆっくりと彼自身の人生を歩んでいるのだろう。
口に出さないままに終わったけれど・・・ひろくん、ありがとう、あなたに会えて、よかった。
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2002
07,19
10:04
ひろくん[1]
CATEGORY[未選択]
7月20日の講演会「子どもが子どもとして生きるために」の前座(?)として、知的障害を持った小中学生の音楽グループ Dreaming Tomorrow が、演奏とパーカッションを披露する。スタッフの私たちもパーカッションに参加するので、今週、合同練習をした。
私は、ちょっとぎこちない。子どもたちとどう接したらいいのかわからないのだ。でも、だんだんと打ち解けてきて、最後は「『ぞうさん』のリズムをするなぎちゃんでーっす!」なんてノリノリになっていった。
楽しい気分で練習は終わった。
けれど、部屋の外の向こう側で、お母さん方が待っておられるのに気づくと、またとまどってしまった。私たち「臨時スタッフ」は、あいさつしに行った方がいいのか、でしゃばらない方がいいのか・・・。
その日家に帰って「ひろくん」のことを思った。
ひろくんは、次女が保育園のときいっしょだった子だ。
初めてひろくんと会った日、彼は園の門から玄関までをはうように登園していた。歩行やことばに障害があって、ころんだとき頭部を保護するためにヘルメットをつけていた。
最初は母子登園だった。次の年には送り迎えだけになっていたが、ひろくんのお母さんは心配そうな顔でいつも彼のことを見ていた。そして、私たちほかの母親とほとんど交わることがなかった。伏目がちに歩いていて、あんまりかまって欲しくないようにも見えた。私たちもどう話し掛けていいのか分からなかった。
それでも、そのうち、ひろくんはどうにか手をつかずに歩けるようになっていった。私たちの目にもゆっくりだけど、「成長」しているのが見て取れた。
そうやって毎日がとぶように過ぎていって、私たちの子どもも最年長組になった。そして年に1度の学習発表会の季節を迎えた。その保育園は、学習発表会を最年長組の子どもたちに運営させていた。年長組の子どもたちは、自分たちの劇ばかりか、他の組の大道具小道具の設営も担当しなければならないのだ。
練習が始まってすぐの保護者会のとき、今までほとんど発言したことのなかった、ひろくんのお母さんが口を開いた。
「うちの子は生後まもなくかかった病気で、脳の半分近くを切除しました。お医者さんから、感覚や知能をつかさどる部分を切除したので、この子は一生目も見えず、耳も聞こえず、しゃべれず、知能も低いままで生きることになります、と言われました。ショックで、退院してずっと家の中で、人目に触れないように育ててきました。でもそのうち眼が見えているんじゃないか、耳も聞こえているんじゃないかと気がつくようになりました。残った脳の一部が、なくなった脳の部分まで一生懸命働いているんじゃないかと思いました。意を決して普通の保育園に入れることにしました。切除した脳の上には頭蓋骨をのっけているだけです。衝撃にはとても弱いのです。だから、たくさんの子どもたちがひしめいている場に連れて出ることは、危険でもあるのです。とても心配でした。でも、息子は少しずつ動いたり、ことばらしいものを発したりし始めました。やはり同年齢の子供たちから受ける刺激が必要なのですね。でも、今回の劇には、息子を出して欲しくない。大勢の親御さんたちの目の前に姿をさらして、劇をしたり、進行の手伝いをしたり、そんなこと! だいたい、せりふが言えません。身体も半身麻痺で、道具を運んだりできません」
私にとっては初めて聞くことで、お母さんの長く深い悲しみのときを思って、ことばもなかった。
そのとき保育園の先生が「非情なようだけど、ひろくんにはみんなと同じようにしてもらいます。劇はみんなで作り上げていくことになっています。保育の学習課程なのです。それに役や仕事を免除すると、子どもたちが『ひろくんだけずるい』と言って承知しません。子どもたちにとっては、ひろくんも同じなのです」と言い切った。ひろくんのお母さんは納得したのかどうか。私たちも何も言えなかった。
その日から毎日毎日子どもたちは練習を続けた。練習の中での子どもたちの様子、起こった出来事などはクラス通信で知らされた。口に出しては言わなかったけれど、どの親もひろくんのことは気になっていたと思う。
劇の発表の日。私は次女のこともさることながら、ひろくんがうまくできるだろうかと気になって仕方なかった。年少組の劇の場面展開のとき、ひろくんが他の子どもたちと出てくる。斜めに傾いた体。片手はほとんど動かない。他の子どもたちは自分のことで精一杯。ひろくんを助けてくれる人はいない。自分の仕事は、自分でやらなければならないのだ。
ひろくんは、麻痺した片手を支点に、机をぐいっと持ち上げた。
お母さんの目は真っ赤だった。
そして最後に、年長組の劇「森は生きている」。ひろくんの役は8月の神様。せりふは確か「8月の太陽がさんさんと照らすよ」だったと思う。
皆が固唾を飲んで見守る中、ひろくんは、大きく、はっきりと、言った―「ハチガツノ、タイヨウガ、サンサント、テラスヨ」。
(続きは、来週)
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