NAGIの不思議日記
日々の出来事や出会いは「?」の連続。 書きとめることで、感じた「?」を深めたい。
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2006
10,16
22:55
昨日のつづき
CATEGORY[未選択]
私が今、母に寄り添えないのは過去の記憶とは関係ない。
母には母の悩みがあっのだから。
子育てがつらかったというのも正直な気持ちで仕方ないと思う。
私だって今更「あったかーいかあちゃん」を求めているのではない。
母ももう80歳が近い。残り少ない時間を、心から打ち解けあう話がしたいのだ。でも、母の言動に押し付けや支配の気配が見えると、私のこころは反射的に固まって、受け付けなくなる。母からすれば「娘のくせになんでそんなに反発するのか」というところなんだろうけど。
母の言動を非難する自分自身も嫌。なにをえらそうに・・・と自分の卑小さがたまらなくなる。
というわけで、私は実家に対して足が重い。
今日仕事帰りに用があって寄った。チャイムをおすところから、私のからだは半分引いている。
竹内レッスンでよく言われるけど、からだは正直。
苦笑しながら、でも余計な話をして、嫌な気分にならないようにと思って、用件のみ済ませる。
その短い時間に母は必死に自家製の野菜を袋に入れて渡そうとする。まるで早くしないと娘が振り向きもせず、車を発進させると思っているようだ。
母は母なりに娘に対する愛情はある、ということ、分かっているつもり。でも分かっていても、私は母の言動を受け入れられない。母が押し付けてくるものがいやでたまらない。
母はさみしいだろうなと思う。母が招いたことではあるのだけれど、申し訳ない思いがする。
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2006
10,16
00:34
子育てって
CATEGORY[未選択]
昨日の秋祭りで子育ての頃を思いだした。
あの頃に戻れたら、なんて思うことも多い。
もっとひと時ひと時を大切にして・・・とか、こどもの気持ちに寄り添って・・・子育てをやり直したいなんて思ったりする。
みんなはどうなんだろう・・・。
活き活きと充実した子育てをやりきった人も多いだろう。
後悔はしない、過去を悔いるということは、反面、今の我が子のありようを否定することにもつながりかねないから、っていう人もいると思う。
私の場合、今の我が子に不満はないんだけど、私自身を許せないってところがある。
数年前、子育てのことを実母と話していたとき、こんなことを言われた。
「あなたはいいわよ。勤めがあるということはある意味、楽をしてるのよ。専業主婦で24時間ずっとこどもにまとわりつかれていることを考えてごらん。友達は、若い頃に戻りたいっていうけど、わたしはちっとも思わない。もう一回子育てしなければならないなんてまっぴらよ。今の方がよっぽどいい」
母は言いながら、子どもにまとわりつかれてそれを引き剥がそうとしてもはがしきれないってところを身振りで示した。なにか汚いものをひきはがそうとするような苦痛に満ちた動作だった。
ショックだった。母が「あったかーいかあちゃん」でなかったことはずっと感じてきたことだが、さすがに本人の口から言われると、ツライものがある。
私が一応恵まれた環境にいて、なんで子供時代さびしかったのか、こういうことなんだよなと思った。
ところが当の母は自分はちゃんと子育てをしたと思っている。最近の少年事件ニュースに「近頃の親は・・・」と批判し「教育論」をぶつ。
そんな母に対して、私はこの年になっても「反抗的」だ。私たち親子のあいだの気持ちのすれ違いは年月によって癒されるどころか、いまだにぐずぐずと傷口を開けている。私は母のいう言葉を否定し、その自己中心性を指摘する。ホントはこういう事を言う自分がいやなんだけど、母の言葉を聞くと、つい言ってしまうのだ。
私も懲りないばか者だわ、いい年をした母親を痛めてどうする・・・情報量も社会的経験も太刀打ちできない相手になっている娘に対抗してくる母をあわれとと思って受け入れるべき、何度思ったことか。でも、私の中にはきっとまだ「さびしい子ども」がいて、どこかで、母が「申し訳なかったね」と言ってくれるのを待っているんだろう。
子としてのわたし、母としてのわたし。
痛さが違う・・・。母としてのわたしの痛さは私の生を前向きにしてくれる。
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2006
10,14
22:10
秋祭りの日に
CATEGORY[未選択]
今日は町内の秋祭り。
6年前に当番だった年を最後に、ここ最近はご無沙汰している。
今日も行く気はなかったが、公園から聞こえてくるマイクの声につられて、のぞいてみることにした。
もう終了が近く、明かりのともったテントの下の人ごみも動きがない。元気なのは、今日だけは「集団夜遊び」が許されている子どもたちだけ。なんでも楽しい年頃なんだね。きゃあきゃあとはしゃぎまわっている。
私の子どもたちは祭りのときどうだったかなあ・・・。
長女が小さかったときはこの辺の祭りでもだんじりを引いていた。車の通りの多い町内の道を子どもたちは綱にぶら下がるような格好振られながら歩いていた。はらはらしながら長女に付き添っていたとき、車のライトに照らされて暗がりの中に浮かび上がった長女の顔。口をへの字に結んで目を見開いた小さい顔。
次女や長男が祭りデビューする頃には、だんじりをださなくなって、公園での模擬店とカラオケだけになった。長男はお小遣いをもらって、友達とあの店、この店と走り回っていた。くじの引換券やらお金やらよく落としては、がっくりしていたのを覚えている。
でも私が子どもと一緒に公園での祭りを「楽しんだ」記憶はあまりない。当番のときは模擬店で忙しかったり、公園で遊ばせておいてその間に家で片付けとかしていたんだろう。あの頃はゆとりがなくて、公園に連れて行ったあと私は家に帰って家事をしていたように思う。長女と次女は二人で、長男のときは友達と遊んでいたんじゃないかな。
切れ切れに残っている子どもたちとの祭りの思い出を寄せ集めながら、ほろ苦い後悔の念が浮かぶ。子どもたちとの時間をもっと大切にしたかったな。無我夢中の子育て期だった。祭りの日に子どもたちと一緒に笑ったり、遊んだりして過ごす時間よりも、家事を片付けるほうを優先させてしまっていた。
今思えばたくさんの宝物があったとわかる。二度と返らないときの流れ。
公園に一人たたずんでいると、子どもの手のぬくもりを手繰り寄せようとしているのに気づく。
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2006
06,17
21:27
蛍見物
CATEGORY[未選択]
町おこしのイベント――蛍見物に友人と参加。
岡山駅から町営観光バスで出発。
後ろの席に座った。
前では町職員さんが町の歴史や観光案内に一生懸命。
ところが最後尾に陣取った4人組のうるさいこと!
ワアワアキャアキャア。私たちも含めて後方に座った客はちらちらと非難の目線を後ろに向けているが、気づいていないのかおさまる気配なし。
せっかくのバスの中も「やかましーー」、気分台無し。
いったいどんな「オバタリアン」?と、そっと見ると、私よりも若いみたいなのだ。あーー、「オバタリアン」は年齢ではないのだ。
周囲の目を気にせず、デリカシーよりも利己的満足度を追求していく、そして自分たちの行動に何の疑問もいだかない、それが「オバタリアン」資格なんだ。
蛍が出るという川べりでバスを降りる。ほんのちらほら点滅する光。それでもその光に不思議な感動を覚える。
ここでも「オバタリアン」たちは「わー、すごー、きれー、きゃあー、見て見て、すごーーーい!」を連発。
友人と「処置なしだね」と苦笑いしながら、土手を歩く。
「オバタリアン」たちから離れてしばらく歩くと、暗闇に覆われた対岸に無数の光の点滅が始まっているのが見えた。
光の点滅に見入る。
オバタリアンの嬌声も遠くに感じられ、ただただ見ていた。
「どうしてだろう、いつまで見ても飽きないね」
「うん」
時間が止まった感覚。別世界での「絶対時間」。
帰りのバスで「また来たいね」と言っていたら、後ろのオバタリアン4人組、「よかったなあ、来年も来ようね」。
思わず、友人と目を見合わせた。
「どうする???」
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2006
04,19
20:15
集まりのあとで(3)
CATEGORY[未選択]
「なんかこう書くといつも自分が擬態をとっているようだけど、そうかなぁ」と考えると、もちろん今ではそうじゃない場合の方が多い。
それに、素の自分を出せていないときというのは、相手への気遣いからという場合もある。
ただ、素の自分を出せなかった後の違和感と自己嫌悪が強烈なんだね。
ずっと自分が素の自分でないような気がして嫌だったころ。
竹内レッスンで、うすうす感づいていたその自分をリアルに見せられた。
レッスンを重ねて少しずついろんなことが言語化され、整理できてきた。
そして、この集まりのようにひとつの試される場として、仲間とのやりとりが深まるにつれ、少しずつだけど、自分が変わっていってるのを感じる。ほんとの自分をさらけ出すこともOKになってきたし。他人を心から信頼することもできるようになった。人に頼るということもできるようになった。
そして、そうできる自分が好きになってくる。
まだまだ「3歩進んで2歩さがる」状態だけど、自分の変化を少しでも実感できると、自分が信用できないと落ち込む回数も減ってくる。やはり、一人では変われない。人の中で試されながらでないと、変われない。
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