NAGIの不思議日記
日々の出来事や出会いは「?」の連続。 書きとめることで、感じた「?」を深めたい。
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2002
04,23
09:58
「欠けたところ」を自覚して
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4月20日。
鳥山敏子講演会のミーティングに集まったスタッフ。
職業も、年齢もさまざま。
でも、共通して盛り上がるのは、親子、夫婦の関係性についての話題。
だって、本音で渡り合うべき相手との関係の中に、最もはっきりと自分の「立ち方」が見えてくるから。
そして、このことに関しては、みんなが、自称「問題児」。
だって「問題」があるからこそ、あるいはそれを認めているからこそ、どうにか学んでいこうという思いを持ち続けられる――と思っているんだもの。
今回のミーティングも、講演会の段取りについての話はそっちのけで、夫婦の関係について、から、本音の関係って何? 自分は「立って」いる? さらに「愛」って何?など、議論沸騰。
話していく中で、自分が見たくないことが見えたり、相手の言葉に詰まって問いを見つめ直したり、心は波立つ。ここには、お互いを信頼していればこその「突っ込み」がある。胸を張って「問題児」であることを宣言している私たちは、なかなか引かない。
つくづく思うのに、私たちはそれぞれに「欠けたところ」を持っていて、しかもそれを自他に明らかにしていこうという気持ちを持ったものの集まりだ。
「欠けたところ」は、あるときは気にしなくてもいいくらい小さなものに思えることもある。またときには、自分の存在を脅かすくらいに大きなものに思え、それを埋めようとして、いても立ってもいられなくなることもある。
私が自分を「欠けた」ものだと思い知らされたのは、10年前、長女の思春期の頃。以来、私の子どもたちは常に「池に張った氷を割りさざめかせる白鳥」(先週の考現学を見てね)だった。
子どもとの葛藤は、自分がいつのまにか不自由な価値観に支配されていたこと、何でもできると思っていたのに実は肝心なところでどうしようもなくダメな人間だったということを自覚させてくれた。さらに、夫との関係性のおかしさも浮かび上がってきた。この10年間、幾度となく、自分がいかに欠けた人間であるか思い知って、子どもに申し訳なく、自分が情けなくて、泣けた。
でも、今振り返ってみて、あの日々は幸せだったと思う。
涙とともに一枚一枚自分の殻がはがれていくようで、痛くはあったが、気持ちよかった。
子どもたちのおかげで、いい10年が送れた。その子どもたちも一人ひとりと巣立っていって、今では、涙を流すこともめっきり減った。
でもだからといって、私が「本物」になったわけではない。たいして成長していないことは自分が一番よく知っている。
一人では「問題」が起きない。起きても、見えにくい。
「白鳥」の存在がなければ、また薄氷が張ってくる。私ってそういう「問題児」。
だからこそ、「欠けた」仲間と、「欠けた」ところを見つめる時間が大切。
お互いにさざめきあい、お互いに「氷」を壊していく―そんな場に居続けたい。
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2002
04,17
09:58
直(じか)に触れる―5月4日の講演会を前に
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昔読んだイギリス小説の冒頭部にこんな情景があった。
冬のロンドンの公園。薄氷が張った池の真ん中に白鳥が浮かんでいる。白鳥が動くたびに、周りの氷がさざめいて割れていく。いくつもの氷のかけらが水面に重なり合い、ひび割れは少しずつ広がっていく。しーんとした中、そんな様子を中年の夫婦が見ている・・・。
実はこれは、夫婦の現在、そしてこれからを象徴している場面だった。
子どもがいなくて、静かで教養豊かな毎日を送っていた裕福な夫婦。彼らのもとに、突然、父親が再婚して生まれた子(この夫から言うと年の離れた異母妹になる)が送られてくる。両親ともに亡くなったので、引き取らなければならなくなったのである。
ここでは、池の氷は、彼らの世間体やプライドを優先した日常であり、心であり、白鳥は、本音をぶつけてくる子どもを表している。この子が、家庭的なあったかさを求めて突き進むものだから、会話や行動のたびに、夫婦は揺さぶられ、困惑し「得られぬものを求めて突き進んでくる、あの子はモンスターだ」と言わしめる。夫婦の、安定した日常はさざめく氷のように次第にくずれていく・・・。
竹内敏晴さんが1月の講演の中で「直(じか)に触れる」ということを言われた。著書の中でも「直に触れあうことができるのは子どもと病者」ということを書かれている。あの講演を聞いてから、ときどき、この、昔読んだ小説のことを思い出している。
「直に触れる」――大人は、怖くてできない。頭で考えすぎて、判断力や知識や経験が邪魔して「直に」触れられない。
この小説でも、直に触れてくる子どもは、無意識のうちに大人を追い詰めていた。平穏な日々は破られ、自分のこころの面での無力を実感させられる。この夫婦は、自分の安定した今を守るために、子どもと向き合うことを、避ける。悪意のある人でもなく、養育の責任はきちんと果たしているのに、彼らには肝心のものがない。眼をそむけることしか、方法がないのだ。読んでいて、息がつまるような小説だった。
私も自分から「直(じか)に触れに行く」ことはできなかった。今でも多分できないだろう。でも、直に触れてきたものに対して、本音で向き合い、直に返す、ことはできる、と経験的に思っている。むしろ、一度、直に触れ合う関係を知ってしまったら、いわゆる「いい関係」というものがどんなにつまらなく色あせたものに映ってくることか。
鳥山敏子さんは、大人だけど、直に触れにくることのできる、本気の人だ。
だから、怖くもあり、でも魅力的なのだと思う。
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2002
04,09
09:57
息子の「花束」
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息子が中学を卒業した。
この3年間、息子は、内側では思春期を経験し、外の世界では「学校」という場でさまざまなことに直面した。その中から、息子に何が伝わっていったのだろうか。
息子は、小学校のころ、薬害エイズのニュースを見て「おれも大人になったら、管厚生大臣(当時)のように、勇気を持って世の中の矛盾を変えていくんだ」と言っていた。くったくなく単純で、正義感に燃える子どもだった。
その彼が3年間に学んだことは「大人は口と行いが違う」「目立つとヤラレル」「人間関係は本音を言うとうまくいかない」といったことだけだったとしたら・・・。彼の口をついて出てくることばに内心つらい思いがあった。
卒業の日、彼は部活の後輩から花束をもらった。おそらく家族親戚関係以外で、個人として、花束をもらったのは、初めてのことだったろう。
「おれ、花、もらった」はずかしそうに笑った。
どうするのかな、と見ていた。日頃、玄関まわり、部屋の中、花を飾っていても、見向きもしない息子だったから。
意外にも、彼は、自分で、水切りし花瓶にさし、机の上に飾った。何日おきかに、水替えもしていた。1週間たち、花も少々くたびれてきた。もう捨てるかな、と思って見ていたが、相変わらず、大切に飾っている。
昔読んだ、サリンジャーの短編に'Just before the war with the Eskimos'というのがある。
ジニーは、貸したお金を返してもらうためにテニス仲間の家に強引に押しかける。待たされている間に、その家の長男が偶然現れる。彼は、いわゆる社会的な「落ちこぼれ」で、さえない青年。でも、とりとめもなく話していくなかで、なぜだか彼女は心が和らいでいく。ジニーは、お金を取りたてるのを止めて、帰途に着く。彼女のポケットから、さっき彼が「いいから、食えよ」とくれたサンドイッチの半分が出てくる。捨てようと思って、でも、やっぱりまたポケットに入れる。顔には微笑み。そういえば、イースターでもらったひよこが死んだときも、3日間捨てられなかったっけ・・・。
この短編、30年前に読んで、いまだに忘れられないのは、最後の部分。
「ごみ」になってしまっても、思い出がくっついているものは、捨てがたい。
そんな、私自身経験して知っていることがだぶって忘れられない1節となった。
日常のささいなものが心を温かくやさしくする。息子が、もらった花を捨てることができない気持ちを感じて、私もあったかくなった。口では破壊的なと思えることを言っているけど、彼のこころの土壌は荒廃していない。
今日は、もう入学式。いくらなんでも、もう「花」とお別れだね。
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2002
04,04
09:57
日々感じながら、私は生きている
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もう1つ、父母が、私が子どもの頃言っていたこと。
「お前はいろいろ親に注文をつけたり、批判をしたりするが、もうこの年になったら、変われるもんじゃない。お前もこの年になったら分かる」
今、私はもう、あの頃の父母の年齢を越えた。
でも、学びつづけたいと思う自分を感じる。変化している自分がある、と思っている。
すごく自分を未熟で若いと考えている。子どもが発した言葉にハッとして考えこんだり、振り返ったり、進んだり、落ち込んだり、毎日思いがからだをかけめぐっている。こういう感覚は、父母にはなかったんだろうか。
時代が違うからかもしれない。父母の時代とは違って、生活にゆとりもでき、情報も豊かになって、(こころの面でも)生きることに意識を向けることができるようになったのかもしれない。
理由はどうであれ、こうやって日々いろんな問題に向かい合って、揺さぶられながら生きていけることをありがたいと思っている。
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2002
04,04
09:56
子を持って知る「子のありがたみ」
CATEGORY[未選択]
子どもの頃、私が反抗すると決まって父母が言っていたことば。
「そんなこと言っているけれど、お前も人の子の親になってみたらわかる。子を持って知る親のありがたみ、親孝行したいときには親はなし、とはよく言ったもんだ」
実際に自分が子どもを持ってみて、子育ては人生の楽しみだと感じた。もちろん、子どもが小さいときは手もかかるし、育児に慣れなくて、かわいいと感じることばかりではなかったが、恩着せがましくいうようなことではないというのが、実感だった。
おそらく、私の母親にとって「子育て」は恩に着せなければならないほど大変なものだったのだろう。今では、それが母の育ちや夫婦関係に原因があったとわかる。しかし、幼いわたしにとって、つらいと感じながら育てられたことが伝わらないはずがない。なぜ、満ち足りていたはずの毎日が、子供心にもあんなにもさびしかったのか、そのことを思い出すたび、私は子育てを楽しもうと思っていた。
しかし、子どもが思春期を迎える頃、私にも子育ての荒波がやってきた。子どもたちが次々に突きつけてくる問題。苦しく、悲しかった。始めは「なぜ?」と子どもに向かって問うばかりだった。こんなに一生懸命、家事と育児と仕事を、一人何役もこなしてがんばってきたのに、と情けなく、怒りさえ覚えた。
・・・これでは、母と同じだ。
子どもの心を少しでも理解しようと、必死になった。反抗する子どもは確かにやっかいだったが、それ以上にいとおしかった。いろんな場に顔を出すようになった。
そのうちおかしいのは私自身であることに気づいた。そうすると、ある意味、楽になった。人を変えようと思うと、思うようにならなくて苦しい。でも、自分を変えるのはそれよりはかんたんだ。無我夢中で、自分を問いなおしてきた。
10年たって、「子どものために」がいつのまにか「自分自身のために」になってきている。まだまだ不完全さばかりが目立つ自分ではあるが、歩んできた道を振り返るとき、まんざら自分のことをきらいじゃない。愚かだけど一生懸命だよな、と思う。
子どもがいてくれて、子どもが反抗してくれたからこそ、私の人生にほんとうの学びが生まれた。
よくわかった。子を持って知る「子のありがたみ」だと。
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